「ずいずいずっころばし」からみるお茶の歴史と徳川家康
2021.03.09(Tue)
昔から日本に伝わる童謡「ずいずいずっころばし」
みんなで手を軽く握って輪を作り、歌に合わせて順番に各々の輪に指を差し入れる遊び歌でもあります。
みんな一度は遊んだことのあるこの「ずいずいずっころばし」
実は、お茶が大好きだった徳川家康と深く関係があることをご存知でしたでしょうか?
今回はお茶の歴史を辿りながら、童謡「ずいずいずっころばし」と徳川家康との関係をご紹介していきます。
お茶の歴史
本山茶の歴史はこちらでお話をさせていただいておりますが、ここでは「日本茶」の歴史をお伝えいたします。
・奈良〜平安時代初期に中国から持ち込まれた
日本茶は奈良〜平安時代初期に中国から持ち込まれたと言われています。
当時のお茶は今でいう健康食品のような扱いで、滋養強壮・体調回復のために飲まれていました。
とても貴重で上流階級の間でしか飲まれていなかったため、遣唐使が廃止になったことで一度お茶の文化は廃れてしまいました。
・鎌倉時代に再度中国から持ち帰り、各地域へ広がる
そして鎌倉時代に再度中国から持ち帰り、僧の栄西や明恵の活躍によりお寺でのお茶栽培が各地域に広がっていきます。
次第に武士たちの社交にも利用されるほど普及し、江戸時代には幕府の儀礼に正式に用いられるほど切っては切れない関係となりました。
・日本独自のお茶は鎌倉時代や江戸時代に発祥
1738年(元文3年)には、永谷宗円(ながたに そうえん)により新しい製茶法が生み出され、それまで茶色だった煎茶は緑色の水色(すいしょく)を出すことができるようになりました。
この製茶法は「青製煎茶製法」と呼ばれ、瞬く間に全国に広がりました。
そして1835年(天保6年)には、山本山の6代目である山本嘉兵衛(やまもと かへえ)が玉露の製茶法を生み出し、煎じて飲むお茶が広がっていきます。
日本茶の歴史自体は奈良〜平安時代と、かなり昔ではありますが、現在当たり前のように飲んでいる煎茶で考えると、鎌倉時代や江戸時代に生まれたものとなります。
その時代の人たちの尽力で、日本独自のお茶が発展を遂げたと言えます。
徳川家康と「ずいずいずっころばし」
では、徳川家康と童謡「ずいずいずっころばし」はどのように関係しているのか。
それは、徳川家康の「お茶を楽しみたい」という思いから生まれたものでした。
・健康マニアだった徳川家康
戦国時代から江戸時代に活躍した徳川家康は、当時の平均寿命が37〜38歳であるのに対し、享年75歳と非常に長寿でした。
少しでも長く生きて、天下取りの機会を得ようと考えていたとされ、健康マニアな逸話は数知れず…。
食事にも気を遣い、日本茶を愛飲していたと言われています。
晩年は大御所となり駿府城(静岡県静岡市)へと移ります。
安倍茶(現在の静岡本山茶)を徳川家御用達のお茶として愛し、お茶を満喫するために静岡市北部にある井川大日峠にお茶を保管する蔵を建設しました。
秋になると茶壺に入れられたお茶を駿府城に運ばせ、お茶を楽しんだと言われています。
このお茶を運ばせる行事を「お茶壺道中」と呼び、将軍が口にするものを運ぶことから権威が高く、大名行列は道を空けて庶民は顔をあげられなかったそうです。
・お茶壷道中を風刺した「ずいずいずっころばし」
そんな「お茶壺道中」を風刺しているのが、童謡の「ずいずいずっころばし」です。
諸説ありますが、下記のような内容です。
ずいずいずっころばし ごまみそずい (ごまみそを作っていたら)
ちゃつぼにおわれて とっぴんしゃん(お茶壺道中がきたので、戸をピシャリと閉めた)
ぬけたら どんどこしょ(お茶壺道中が通り過ぎ、やっと一息がつける)
茶壺が家の前を通る緊張感が伝わってきます。
現在コロナの影響で開催が難しいですが、「駿府お茶壺道中行列」として伝統行事となっています。
まとめ
お茶の歴史を辿りながら、童謡「ずいずいずっころばし」と徳川家康との関係をご紹介してきました。
お茶の歴史を知ることで、お茶の楽しみ方や味わい方の幅を広げていただけたら嬉しいです。
静岡茶商工業協同組合が運営している「一茶」では、選りすぐりのお茶をご紹介しています。
ぜひ、お気軽にお立ち寄りください。